2011年7月28日木曜日

少し、まじめなお話をしましょう

人は未知の出来事に遭遇すると、自分の記憶、学習、習慣を意識的、無意識的に照合しつつ、
自分に理解できる「筋」を通すべくひとつのストーリーを作り上げます。


「幽霊」とか「呪い」などという概念はまさにその典型です。


そして、客観的根拠がたとえなくても、そのストーリーに則って、自分なりの解釈を盲信してしまうことがあります。
そうなってしまうと、大変厄介なことになります。

いかなる正論や説得もごまかしにしか感じず、いっさい受け付けません。


UFOや心霊現象ですべての現象を説明しようとする人が後を絶たないのと同じことです。



これは何も、オカルト現象だけではありません。

日常の些細なこと、対人関係などでも起こりうることです。


「~にちがいない」
というのは、基本的に思い込みです。

もちろん、その思い込みによって、うまくいくこともあります。

わかりやすい例でいえば、勝つことを疑わずに最後の最後まで勝負を挑み、劇的な逆転勝ちをしたナデシコJPはまさにそのいい例です。
(試合前から優勝カップを持って喜んでいるヴィジョンが見えていたらしいです)



しかし、逆の場合はどうでしょうか。
ナデシコJPとは逆の結果に・・・とまでは書く必要ないですよね。


基本的に、人生すべて「未知」の出来事です。

予測しうる出来事はもちろんありますが、
時間は一方方向にしか流れないので、「今」この瞬間は、すべて未知のはずです。

「未来」はいうまでもありません。

ですが、私たちは、自分にとって何か難しい出来事に出くわしそうなとき、
わかったような顔をして、

「どうせ・・・・だよ」

と自動的に決めつけてしまいます。


マイナス思考の厄介なところは、
それが鎮痛剤となることです。

つまり、失敗したときの心の痛みを、「予知」していたことによって軽減してくれます。

それはそれで大切なことでしょう。
いちいち「未曾有の痛み」と体験していたら身がもちませんから。


しかし、それが「常備薬」になってしまったらどうでしょうか。
「薬漬け」の状態になってしまったらどうなるでしょうか。


先へ一歩も進めなくなってしまいます。
自身の(小容量の)記憶、(限られた)経験のもとでしか動けないからです。


何が起こるか分からない。


それは、心配しているような大変なことだけではなく、いい意味でもあります。


基本的に感動というご褒美は、「未知」の体験を乗り越えた先に与えられるものです。
わかりきった結末を迎えたところで、感動するでしょうか。

そういう経験、20年前後生きてきたらひとつくらいはあったはずです。
ゲームのクリアでもいいですし、レアなお守りを掘り当てたでもいいです。

でも、ROMをいじってすごいことを為しても、初めて成功したときは「神」になったみたいで嬉しいでしょうけど、慣れてくればただの惰性になります。



予測しえないもの、簡単には手に入らないもの。
ちょっと怖いもの、勇気がいるもの。

要するに、先日上西Coが書かれていた「めんどくさい」ものですね。



はっきり言いますと、「めんどくさい」という感情はごまかしです。
クールぶってるだけです。


「出来ないといけない」と思っているから、失敗を恐れているのです。

その失敗をびびってるだけです。

そうやって恐れている「失敗」というのはそんなに「大変」なことでしょうか。



万能感を捨ててご覧なさい。

そもそも、そんなに完璧な人間ですか?
自問してみてください。



今日はこの辺にしておきましょう。

また話しましょう。みなさん。

森田健一

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