2011年7月29日金曜日

まじめなお話 続編

今日も生憎のぱっとしない朝の空。

そして、明日はオープンキャンパス。

大学生活への期待と不安に胸膨らます高校生たちに、本学に良い印象を感じてもらうためのスパイスとして、からっと晴れ渡った一日になってほしいものです。


さて。

昨日は真面目なことを書きましたが、その続きです。


昨日の要点は・・・
*私たちがいかに、限られた経験や記憶などから構成されている「思いこみ」に支配されるものか、ということ。
*ネガティヴ思考は鎮痛剤となり、中毒性を持つこと。
*めんどくさいという感情は臆病な自分をごまかすためのまやかしだということ。


じゃあ、どうすればいいの?

・・・と、もちろん知りたくなるでしょう。



ひとことでいえば、

「自分で考えなさい」

に尽きます。


「自分で考える」ということはアルファでありオメガであり、松竹梅です。


私たちは幼少期から、家族や近所の人、教師たちなど様々な大人によって「教育」されてきました。

つまり、「模範を提示され、それを全うすること」をよしとして育ってきました。

だから、意識的、無意識的に「正しい解」を求めてしまう癖がついてしまうものです。

でも、その癖のつき方には個人差があるように思います。
それはどのように「教育」されてきたか、そして、どのようにそれを「体験」してきたか、ということに由来します。

教育の在り方は、個々人によって様々に体験されてきたでしょうし、
一概にどういう教育がよい、わるい、ということも言えません。

人によっては「援助」的に体験されたでしょうし、
人によっては「訓練」的に、あるいは、人によっては「脅迫」的に体験されたかもしれません。

大事なことは繰り返しますが、「客観的な教育」のありようのみならず、それぞれがどのように「自分の血肉として吸収した」か、
ということが、大切になってきます。


つまり、
大人、あるいは、世界そのものに対して、
「頼れるもの」と感じるのか、「厳しいもの」と感じるのか、「恐ろしいもの」と感じるのか、
ということ。
ほかにもいろいろあるかもしれません。


そのイメージがネガティヴであればあるほど、生きにくくなるのは言うまでもありません。
とても辛い思いをしているはずです。


しかし、それは誰のせいでもありません。

「教育者」のせいにすることも、あるいは自分のせいにすることも可能ですが、
よくよく考えたらわかります。
考えて考えて行きつく先は、宇宙の始まりか最果てでしょう。



大学生(青年期)であるみなさんは、教育を受けるだけの立場からの脱却期です。
受動的に学ぶのではなく、積極的に学ぶ機会が大学です。

それは、勉強だけではないですし、大學という場だけでもないのは言うまでもないですよね。

生き方、考え方、趣味、夢、すべてのことにおいて、
「自分」で積極的に考えることが「許される」時期に入っています。


いいですか、あなたたちは「自分」の人生を生きる「権利」を持っているんです。
今までは大人の「支配下」にあったかもしれませんが、「大人」になりつつあるあなたたちは、
もはや、「自由」を手にしてもいいんです。
(自由、権利と同様に、様々な責任、義務が新たに伴ってくることは言うまでもありませんが、それらはこれまでのものとは質的にまったく異なることに気付いてください)

そうした自由を生きるためには、他者の意見や行動は十分に参考にしながらも、それらに「縛られない」ことです。

そうするためには、自分の考えを持つことが必須ですよね。


自分の考えとは何か。


私が思うに、

「自分にとって何が大事なのか?」

まずは、この問いを真剣に考えることから始まるように思います。


「答え」は一つでなくても構いませんし、日々変わってもいいように思います。

でも、ふらふらするのではなく、自分の中で一貫した何かがあることは、
余裕のある日々を支えることになるようには思います。


だんだん難しくなってきましたか?


今日はこの辺にしておきましょう。
それぞれが自分の記憶、今と照らし合わせながら考えてください。


またお話ししましょう。


森田健一

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