2011年9月20日火曜日

「他者は鏡」について

彼岸入りの火曜日、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
森田です。

見事に、秋らしい気候に切り替わりましたね。
とはいえ、あまりに極端すぎる涼しさです。
どうも10月下旬くらいの気温だとか。寒暖差に注意しましょう。


さて。

今日は
「他者は自分を映す鏡である」
という言葉についてです。

みなさんも、一度は耳にしたことがあるかもしれません。

あるいは、「人の振り見て我が振り直せ」、も聞いたことがあるでしょうか。

これらは、他人の行動や言動は、他人事だといって切り離すのではなく、
実は自分自身も似たようなことをしているかもしれないから、十分気をつけましょう。

という意味ですよね。


で、

これを耳にすると、「なるほどなぁ」と一瞬思うのですが、
よくよく考えてみると、「でも、ここはあいつと違うわ」、とか、「あれは違うで」など、否定の要素が次々に思い浮かびます。

一般に、ありがたい言葉(≒うさんくさい言葉)は否定的な要素を見つけたくなるものです。

そして、「他者は鏡というけれど、自分には関係ない」、という結論に導かれる、というのが大衆心理ではないでしょうか。


実は、ここには一つ、勘違いがあります。


それは、「鏡」を「全身鏡」だと思い込んでいることです。

よく考えなくとも、他人が自分と「まるっきり同じ」はずがありません。
見た目はもちろん、歩んできた人生が違うわけですから、中身もおんなじわけがないのです。


それに、「自分を映す」と言いますが、
「自分」というものも、「全身鏡」で映されるような、固定化した、一面体の存在ではありません。

好き嫌い、趣味嗜好、などが日々微妙に変わるように、
「自分」というものは流動的で、多面体です。

単純な例でいえば、
「自分は明るい色が好きだけれど、スーツに明るい色は着ない」
ということもあるでしょう。


なので、「全身鏡」という発想では、この言葉は生きてきません。



そうではなく、全体の中の一部分を映す、「手鏡」だと考えてみましょう。

手鏡は、全体像を映すことは難しいけれど、見たいところは確実にとらえることができます。
それは、今ここ、の真実を映します。

部分であっても、曖昧な全体よりは、真実を映すことに意味があります。


このような視点で、この言葉をとらえると、説得力が増してきます。

他者の嫌な部分、というのは目につきやすいですが、
それは、
1.自分の見たくない(認めたくない)、内面の一部かもしれない
2.自分の嫌な記憶を連想させるものかもしれない。
(記憶、は言うまでもなく自分自身の一部です)
3.自分がまさに乗り越えるべき課題を連想させるものかもしれない。

など、様々あるでしょう。

逆に、他者の良い部分も
1.自分が憧れる部分かもしれない
2.自分の中にひっそりと眠っていて、目覚めるのを待っている部分かもしれない
 :
 :
いろいろ生かす手立てはあるはずです。


ですから、
他者とかかわるとき、何か気になることがあれば、
それは「手鏡」にうつる自分の一部だ、と捉えてみましょう。

そして、それを見ながら、自分の中の醜い部分、汚れた部分を少し整えてみる。
整える、くらいでいいです。

あるいは、自分の中の美しい部分、きれいな部分であれば、少し「ふーっ」と息を吹きかけて軽く磨いてみる。

それを続けていけば、あとは自然に変わっていくでしょう。
勇んで力んでも、なかなか持続しません。

意識的に心がけ続けること、そうしていくことで「からだ」や「こころ」が協力してくれます。


では、また。

0 件のコメント:

コメントを投稿